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シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパッチン研究者の記録

パラサイト・パラダイス

これは今日聞いた名言だった.さておき,われわれ神経科学にたずさわるものは,多かれ,少なかれ,相手の考えていること,見ている世界というのは,どうなっているのだろうかという疑問を持っている.いや,神経科学者だけではないな.疑問を持つ対象というのは,目の前の人間かもしれないし,虫かもしれない.対象が何であれ,動物が世界をどう見ているか.それを考える.「見ている」と言ったのは比喩であって,聞いているかもしれないし,触っているかもしれないし,さまざまだ.どのような世界を持っているのか,といったほうがいいかもしれない.考えてみれば,神経科学者に限る話でもない.日常的に気にしていることだ.ボスはこのデータをどう思っているのか,気になるあの子は何を考えているのだろうか,とか.そもそも自分は世界をどう見ているのだろうか.先生が授業で板書したら,それを写真でとる学生がいるという.それではいけないよ,と言いたいが,彼らに説得力を持って言うのは難しい.異質な相手を見たとき,人間はそれをどうにかしようと思うらしい.人間関係で悩むという問題はここに帰着するような気がする.ただ,誰もが言うようにいつまでたっても相手というのは理解できないものだし,明かになればなるほど,不明な点が増えるのは,サイエンスも恋愛も同じであるような気がする.で,内的世界は原理的に外部化できないので,内的世界は推しはかるのみである.予測といってもいいだろう.ここで,どうやって予測するかが問題となる.予測というのは何も未来予測に限る話ではなく,観測によるよりよい説明といっていいかもしれない.このあたり,最近ホットなベイジアンな世界なのだろう.ただ,観測というのはある種の不確定性が伴う.タダでは情報は手に入らず,情報の観測にはそれだけコストがかかる.観測というのは対象の内部を外部化するのであって,そこには常に失われている情報がある.それを推測しつつ,観測の仕方をあれこれ変えて,対象の内部を推測するという,推測に推測を重ねる作業がサイエンスであって,そこに主観やバイアスがなくなることは原理的にはない.「群盲,象をなでる」というのは皮肉のようで本質だ.いい警句である.自分がなでているのは,常に暗闇の中においてである.