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シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパッチン研究者の記録

ちょうど英語で論文書いていて思うこと

今ちょうどドクター論文になる予定の投稿論文を投稿、そして再投稿のための作業をしている。そんな作業の合間に、ちらっとはてなの人気記事を眺めていたら、 半世紀議論が遅い>『日本語が亡びるとき』 - かたつむりは電子図書館の夢をみるかや、むしろこれから起こるのはネイティブイングリッシュの破壊であるとか - かたつむりは電子図書館の夢をみるかで、どの言語が使われていて、どれを使うかのがいいかということで盛り上がっていたようだ。


どういう言語を使うか、で、僕自身の話だが、幼少期(7年)はタイで育った。幼稚園のころは日本人、タイ人、中国人、アメリカ人なんかが混じったところにいて、各言語圏の人間がいて、先生は英語だった。それで基本的には英語だったが、タイ語もけっこう使って話していたらしい。ところが、悲しいことに、今となっては僕はまったくタイ語が使えなくなってしまった。


それは、単純に言語を使わなくなったからだろう。


言語(ヨミ、カキ、ハナシ)というのは、高度な運動制御とも言えて、トレーニングしないと上達しない。トレーニングとは言っても、人間社会では常に言語を使用せざるをえない。たとえば、筋トレは水泳に効果あるけど、泳ぐのに必要な筋肉や制御能力はつかない。プールで泳げる人は、波のある海でも泳げるけど、海で泳ぐときに波をうまく使えるかはまた別。海で泳ぐためには海でトレーニングする必要がある。つまり、当然の結論として、言語も環境に適した使われ方があるということだ。


言葉は覚えるものである前に使うものだということだ。


言語を使って何をしているかというと、それは、<ものを考えている>ということだ。自然科学研究ではどうかというと、上記の記事で言われているように、この世界では当然のように英語が標準で、非ネイティブによる英語がほとんどだ。となると、そもそもネイティブという言葉の意味がない。だが、それはそれとして、ある業界での言葉の使われ方が、ほぼ研究を規定する。神経科学という学際的領域だと、輸入された、あるいは輸出言葉も多い。そういうダイナミックな中で、どういう問いかけにどう答えるかが仕事だ。研究者はそうして言葉を問題と答えの体系として作り上げていく。


つまり、研究とは「言語操作=思考編集作業」であるとも言える。


事情は、実験科学であっても変わらない。試験管をふる、とか、ザリガニに玉乗りをさせる*1、などの表作業というのは、ある意味で媒介作業にすぎない。実験科学であっても、形而上学に踏み込んだ思考が必要になる。そこにはメタ世界とベタ世界を行き来する知的タフネスが求められる。その中で言葉を紡ぐ作業が研究だ。結局のところ、そうして紡がれた言葉が論文にならないと、研究とは言わない。


今は、とくに学生で物書き作業に突入した人が多いのだろうか、TeXの使いかたの記事も人気記事になっているようだ。そういう物書き道具も、当然思考を規定するので、よく使われているスタンダードをしっかり身に着けながら、あちこちで物書きな皆さん、がんばりましょう。自分もがんばれ。


ついでに、最近読んで大変参考になった本を紹介。もっと早く手に入れていれば、、、とも思ったが、これからまだまだ続くということで。

この本は、「文章がバラバラで意味が通じない!」と言われるけれど、文章のつなぎ方が分からない、あるいは、「簡潔に文章をかけ!」と言われるけれど、簡潔な文章の書き方が分からない、などの思いを持っている人には目からウロコが落ちること間違いなし、です。

*1:僕の研究です