シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパッチン研究者の記録

なりゆき

原因があって、結果がある。こんな自明なことがけっこう悩みのタネだ。これは自分の解釈なのか、ほんとうにそれらに成り立っている関係なのか。この<ほんとうに>というところがくさい。たとえば、僕が昨日体験したこんな場面を考えてみる。自転車で走っている。突風が吹いた。立て看板が自分が通り過ぎるのと同時に倒れた。自分がやったのではない、という顔をしながら通り過ぎる。突風は自分のせいではない。でも、風の動きはちょっとしたものの動きで不規則に変わりうる。僕がそこにいたおかげで突風が吹いた可能性は否定できない。それでも自分のせいではないと言い切るか。少なくとも「そのつもりはなかった」とはいいわけをするか。そうなのだ、原因と結果について考えていると、必ず顔をひょっこり出してくる<自分>。主観といってもいいのだろう。荘子なら「そんなものはないよ、分かりきったことじゃないか」と言うだろう。荘子のようにすべてを<なりゆき>と考えるなら、サイエンスはいらない。好きな海外ドラマCSIにも、なりゆきで志望する大学生の話があった。ゴミ箱をダストシュートに落としてしまい、それをとりに行こうとした大学生が、外に出て大きなゴミ入れに身を乗り出し、落としたゴミ箱をとろうとしたら、そこへ急いで通り過ぎる車が大きなゴミ入れを軽くぶつけ、ゴミ入れと壁に挟まれた大学生があばら骨を折る。そして打ちどころが悪く、内蔵に骨が刺さり、死亡する。そういう話だった。現実というのは一対一ではなくて、多対多の複雑な因果だとして、それが<なりゆき>だと考えることにしよう。でも、人間はなかなかいっぺんにたくさんある情報をみてもそれが何を意味するのか認識できない。そこでコンピュータを利用したり高度な数学を利用したりして、あの手この手で多変数の出来事を調べて行く。しかし、コンピュータで扱うためには信頼できる形で数量化されないといけない。これがまだまだなので、実験科学はなかなかSFのようには進まない。なりゆきで書いてたらこんなんなったけど、考えていることはいまだに自発性とはなんだろうか、という問題。