シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパッチン研究者の記録

ありのままの作為?

僕の研究の問題意識は、レトリカルに表現すると「ありのままの作為はどう存在するか?」と言えるかもしれない。生物個体は目的志向性を持っているように見える。はたらきアリは働いているし、下の古本屋のネコは書架の上で寝ている。青々と草木は葉を広げて太陽の光を取り合っている。こういうあり方をしているように見えるのは、自分自身が色眼鏡をかけているせいだろうか?


作為というからにはソレを行う主体がいる。納豆ごはんをかき込む人がいなければ、血液はサラサラにならない。そして、主体が働きかけるモノ(=客体)がある。そのモノは、ありのままのモノだろうか。最近読んでいた廣松先生の本の中のアイデアによると、こうしていわゆる主観・客観図式の隘路に陥るという。見た目や匂いや音や味やお触り感を省いてしまっても、そこには何かあるはずだ、だけどそれは我々には知り得ないのだ、と。だけども、知り得ないモノ“として”措定できるよ、と。いや、むしろ、そういうふうにフェノメナルな世界を措定するという“として”機制は、共同主観性を持つ。モノは〜としての〜と措定される二肢構造を持っていて、で、アリには僕はカメラを向ける主体、僕には僕から逃げるアリは主体、という二肢構造がある、2たす2で合わせて現象的世界の四肢構造がイキイキ生成される、云々。

世界の共同主観的存在構造 (講談社学術文庫 (998))

世界の共同主観的存在構造 (講談社学術文庫 (998))


このような共同主観的色眼鏡で、我々は生物をいじくり回しては観察し、事実から因果を議論する。僕はというと今は甲殻類使ってとりあえずは、目的志向性を持つ主体としての現れである“自発性”の行動制御機構の解明に取り組んでいる。ただ、自発性は自由を担保する性質であるが、生物としての自由であるとはどうであることか、それらは多様な生物個体において比較生物学的に議論されるべきものだ。


ところで、ブックマークコメントにてid:alamerさんやid:fuku33さんからこんなお題をいただいた。

  • 「リーダー」不在でもやっていけるのは、行動の自由度が高くないからかな?仲間の調和を乱すアリを見てみたいね。
  • 「アリはでもイノベーション起こせないし」とか悪あがきするわたくし。
はてなブックマーク - アリが働いていた - はてなに学ぶ


たしかに、アリはイノベーションは起こせないだろう。むしろ、イノベーションを起こさずありのままで生きて来れたというわけだから、生きる設計原理を書き換える必要はなかった安定な生物といったほうがいいだろうなと考えている。それでも、調和を乱すアリはいるだろうし、彼ら“なり”の作為があるはずで、それは我々とどのくらい違って、どのくらい似ているのだろうか。これはオープンクエスチョンだが、この問題に取り組んで行こうかと。