シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパッチン研究者の記録

「自分探し」を節約してしまいたい

自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)

自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)


FUKAMACHI先生曰く、大石内蔵助よろしく「自分探し」にしっかり討ち入りを仕掛けている本である*1が、鏡の中にある自分の姿を観てエントリーを書いてみた。レッツ自分探し!

自分探しが止まらないのダイジェスト

「自分探しが止まらない」は大きく4章に分かれていて、

  1. 世界に飛び出す日本の自分探し
  2. フリーターの自分探し
  3. 自分探しが食い物にされる社会
  4. なぜ自分探しは止まらないのか?

という章立てになっている。これを自分なりに要約してみる。

まえがき

「自分探し」は現代の若者を表現するキーワードのひとつである。

1章 世界に飛び出す日本の自分探し

まず有名人の自分探し例をとりあげて「自分探し」と自己啓発との関係からその背景にある変身願望を指摘している。さらに「自分探し」と「信仰」との関係に触れる。ここでの「信仰」は著者によれば、

「現代における信仰とは、必ずしも教団組織が存在し、それに所属するという形を取るとは限らない。むしろ、教団組織も教典も存在せず、商品として流通して消費されていく一般消費財としての信仰の方が主流になっている。

であるとし、一見すると「宗教」に見えない商品やサービスの皮をかぶった「信仰」が広がっていることを指摘している。この「信仰」は「自分探し」中の若者の心にひとつのベクトルを与える役割を果たす。

2章 フリーターの自分探し

また、「自分探し」は有名人だけの話ではない。若者たちの労働環境を象徴する言葉に「フリーター」や「非正規雇用」などがある。これらはいわば浮き草稼業であり、自分探しと相性が良い。「豊かになったから、そんなにふらふらしていられるんだ」という元東大学長の批判と*2「いや、それは社会構造が変わってきたからだ」とする反論を対峙させて、そもそもフリーターとは何かを考察している。

3章 自分探しが食い物にされる社会

「フリーター」という映画作成に出資したリクルートの戦略は、「フリーターかっこいい」を売りこもうとしたものだった。フリーターは、既成概念を打ち破る新自由人種として描かれた。映画は失敗するが、これが「愛という名のもとに」という大ヒットドラマで明確になった。この中で固定化した将来像しか描けない「サラリーマン」とクリエイティブな仕事をするいわゆる「ギューカイ」の「カタカナ職業」という対立した構図が浮かび上がってくる。「いまのままでは一生つまらない人生を送ることになる、それは嫌だ、もっと未知の可能性があるに違いない」というメンタリティを持った若者を食い物にする「自分探しホイホイ」とも言える商売が増えてくるのである。

4章 なぜ自分探しは止まらないのか?

この疑問に対して筆者は、個人、社会、世界という階層から社会が抜け落ちて、個人、世界が短絡するというセカイ系の世界観が背景にあるという。

自分と世界の直結した個人主義の発達の末に生まれたものなのかもしれない。この世界観と現代の若者の自分探しも同じ地平にあるのだろう。自分探しが止まらないのは、現代の若者に限った話ではなく、ある程度モノの満たされた資本主義社会の大きな潮流でもあるのだ。

読みながら考えたこと

自由の国で起きたニューソート運動

実は「自由」について疑問を持ちそれを生物学的に基礎づけてやろうとしている僕の研究の発端は、この「自分探し」というものと関係があるなと思っている。「自由」の国といえばアメリカであるが、著者によれば、この「自分探し」は19世紀に生まれたニューソートと呼ばれる運動を端緒とする。この運動が「ポジティブ・シンキング」という言葉を通して普及し、書籍として広められたのがナポレオン・ヒルやカーネギーの「成功哲学本」であるという。

僕はこの運動の考え方とインテリジェント・デザイン論との関係もあるのではないかと考えた。

想定される「力」

著者の指摘にもあるが、マーフィーの法則というのも同じ思想のもとにあるという。よく知られるものが、「トーストはバターをぬった面を下にして落ちる」というものである。確率的には1/2である現象を「ネガティブな現象」のほうが喪失感による心理的要素により多く記憶に残るために「ああ、あるある」となるわけだ。これをポジティブな現象(=「成功」)に当てはめれば、成功哲学が成立する。つまり、等しい確率現象に重みづけを行い、ある種の存在しない「力」を考えるパターンが存在する。

インテリジェント・デザインも当確率で起こりうることに対して「こんな精妙なデザインが自然に起こるはずがない」という信念から「力」が想定される。

セカイ系」サイエンス

ところでサイエンスは、この重みづけをできるだけ排除し、自分と世界を関係づける営みだ。ここで上述の「セカイ系」という言葉の定義を思い出すと、ナチュラル・サイエンスはまさに自分とセカイを扱い、ソーシャル・サイエンスは自分と社会を扱うので、ナチュラル・サイエンスは「セカイ系」ということになる。この怪しいカタカナ語が何を意味するのか疑問だったのだが、ふむふむそういうことなのね、と。

とういうことでナチュラル・サイエンスが「セカイ系」認定されたが、ではサイエンスは同じ「自分探し」なのだろうか?

まずひとつには、「重みづけ」を行わないように対象に忠実であろうとする点で異なる。水にやさしい言葉を書ければ〜云々というのは、この思考を停止しているからサイエンスではない。現場にいれば分かるが、「それはサイエンスではない!スペッキュレーションだ!*3」ということが言われたら、まさにこのような重みづけを指摘されているということである。

以前に「決定論的世界観では自分が抜け落ちる」ということを書いたことがあるが、サイエンスはこの決定論的世界観*4をベースとする。だから、自分が抜け落ちるが、これは括弧にくくるということである。で、括弧にくくりながらも、実験し、モデルをたて、その整合性を吟味し、自分と世界の関係を明らかにしようとする。これは自分は括弧にくくっておいて、その実目指すことは自分を定位しようとする営みである。これがふたつめの、サイエンスが自分探しホイホイ的な「自分探し」と異なる部分である。

さらにもっと言えば、サイエンスのみならず、そもそも、学問というのは自分とは何者かという問いを含んでいる。ここで、カントが立てた四つの問いが参考になる。すなわち

  1. 私は何を知ることができるか?
  2. 私は何をなすべきか?
  3. 私は何を希望することが許されるか?
  4. 人間とは何か?

があるが、この四つ目の問いは前の三つを集約する位置づけである。このカントの問いは、自分と社会、世界にかかわる問いである。僕はことあるごとにこの問いかけに立ち戻るようにしている。ここでは、「私とは何か?」は最後の問いに含まれている。サイエンスのにとっても行き着く究極の問いは(少なくとも僕には)この問いである。

鏡で「自分」を観る

ふりかえって、ナチュラル・サイエンティストを目指す自分を観てみれば、まさに自分とは何かを問い、セカイ系に分類され、団塊ジュニア氷河期世代、余剰博士、プレカリアート*5である。単なる劣化コピーでしかない応用科学などではなく、ピュア・サイエンス*6で、めんどくさい「自分探し」をしないですむように、「思考の経済化*7」のために人生かけてやるから、待っておれ!

科学と方法―改訳 (岩波文庫 青 902-2)

科学と方法―改訳 (岩波文庫 青 902-2)


感覚の分析 (1963年)

感覚の分析 (1963年)


カントと自由の問題

カントと自由の問題

*1:http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080221

*2:「居酒屋のおやじのことばではない」という言葉で笑わしてもらった。

*3:なぜか語感が好きな言葉。

*4:確率論も決定論的である。

*5:不安定を意味するイタリア語の"precarious"と"プロレタリアート"を掛け合わせた造語で、不安定な職種に就く者たちといった意味で使われている言葉。本書p108。

*6:ポアンカレの言葉を借りれば科学のための科学。

*7:エルンスト・マッハの言葉。サイエンスとしてやるべきは、考えることを節約することであるという意。ここでは応用科学などではなく、科学のための科学が真に求められている。