シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパッチン研究者の記録

サイエンスとアート

サイエンスと教養


この動画を観て、このごろ抱いていた考えを書いてみる。「仮説→シミュレーション→現象との擦り合わせ→法則は妥当」の計算論的な手法の成果だし、それ以上に観ていて楽しい。ゲームのようだ。ゲームクリエイターという言葉あるように、アート的である。そこで、サイエンスはアートか?というお題について考えていた。

サイエンスとは?アートとは?ここは最終弁当さんが「教養について」の中で次のように述べられている。

B.A.と対になるのがB.S.つまり、Bachelor of Scienceであるように、ArtsはScienceとの対になる言葉だ。Scienceは「科学」と訳されているのだが、これも日本では「自然科学」ということになる。なんとも変なのだが、いずれ、Artsが教養なのである。知識=Scienceでなく、人間の技芸=Artsとして習得されているものだ。

教養について: 極東ブログ

そして僕はサイエンス側の人間なので技芸としてのアートは全く関係ないかというとそんなことはない。サイエンスが説得性を持つかぎり、アート的つまり教養的なものは欠かせない。

事実判断(サイエンス的)から価値判断(教養的)がどう出て来るかというと、そこにレトリック、議論法というのがあると思っている。

レトリック

レトリックというと修辞的、言葉を飾る技術にすぎないと勘違いされがちである。しかしレトリックは貶められたという経緯がある。説得の論理学―新しいレトリックにこう述べられている。

レトリックを装飾や作為としか見ないこの視点が古典的レトリックにもたらしたものは、ロマン主義の側からの憎悪(「レトリックとは戦いを、文法とは平和を」)と、単純に自然をとうとぶ現代人からの軽蔑とであった。

古典的レトリックとはアリストテレスを端緒とする説得術としてのレトリックである。自然学の祖とも言われるアリストテレスにおいてはレトリックというのは単に装飾の技術としてのレトリックではなく、“情報の編集術”であり、自然の一側面を鮮やかに切り取り、示すための技術であった。

それは現代のサイエンスにおいても重要な技術である。レトリックということではなくて“情報の編集術”、“効果的なプレゼン技術”というのは何もビジネスの世界だけの話ではない。

説得の論理学―新しいレトリックにおいて「レトリックの復興」ということが叫ばれるが、僕はこれをサイエンスにおけるアート的側面に通じるものがあると考えているわけである。

レトリックの使用

職業科学者というのは、専門家でない人たちからお金をもらい、知識を得て、社会を豊かにするということを生業とする。

もちろん内容としてのゆるがない英知がなければ、そのお金をもらうためのプレゼンはニセ科学となる。

科学はみんなを相手にする。偽科学はだませる人を相手にする。

Twitter / katsumushi: 科学はみんなを相��

だが、専門家でなくても質問はできる。そこからそれがニセモノなのかどうかという判断(教養的判断)ができるということが求められるわけである。そういう意味でも現代のレトリック、議論法を学ぶということが肝要なのだと思う。ようはリテラシが大事という話だけども。