シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパッチン研究者の記録

なんで泳いでんだろ?

週に一度はかならず泳ぎにフィットネスに行く。ものごころついたころから泳ぎ始めて、あちこちを転々としてきた僕にとって水泳はことあるごとに立ち返るふるさとだ。生命の針が大きくふれて自分が壊れそうになるとき、内なる狂気が吹き出そうになるとき、水に飛び込み、生命の調律をする。過剰な水泳中毒は薬物中毒よりもよっぽど身体(からだ)によい。この身体というのは身体と脳という対立関係ではなく、脳を初めとする神経系を含む身体であり、身体を鍛えるということの意味は当然ながら脳を初めとする神経系を鍛えることも含む。

体育会系博士の(書く)トリセツ」の中で奥田精一郎会長の言葉:「叱って強うなるなら、なんぼでも叱る。でも強うならない。叱るほうもつまらないはずや。それよりは「頑張って幸せになろうぜ」とささくほうが子供さんも分かってくれる。」を紹介した。また、僕の水泳の最後の師匠は「頭が先に疲れとんちゃうか?」ということをしきりに言った。これらの言葉は、鍛錬が単なる筋力鍛錬ではないこと、ただただ筋肉の強度を上げることがいかに無意味で、頭を使った指導や鍛錬がいかに重要かということを示している。

身体というのはハードよりな遺伝的制約を強く受ける。多くの場合は“あきらめ”の理屈としてこの遺伝的制約が使われる。しかし、人間同士の遺伝的制約など、イルカの遊泳能力との差を比較すれば無に等しい。人間は社会的な動物であるから、社会的な要因の方が大きい。ギニアの水泳選手エリック・ムサンバニ選手とオーストラリアのイアン・ソープ選手では手に入るトレーニング環境が圧倒的に違ったのである*1。ホッキョクグマでさえ100mの自由形の世界記録を持つピーター・ファンデンホーヘンバンド選手より10秒も速く100mを泳ぎきるのである。

それでもたしかにスポーツにおいて「こいつは明らかにジーン・リッチで何をどうやっても勝てない」と思われるような圧倒的な敗北感を少なからず経験する。僕はそんなに身体が強い方ではなかったように思う。それでもそれなりの工夫と努力でやっていた。学んだことはそこで得た結果よりもはるかに大きい。部誌に「katsumushiは水泳という伴侶を得た」と書かれたことがあったが、そうかもしれないと思う。年齢という条件もかなり大きい。大きくなってからでは水感が得られないという厳しい現実もある。また、男性の方が20代前半からくらいに身体が強くなりやすく女性よりも早い時期にハードなトレーニングをやりすぎるのはよくないこともある。個人的には身体の発達が遅めだったので、受験というものとうまく折り合いがつかなかった。受験もスポーツ界のレベル向上を妨げる大きな要因であることは間違いない。

スポーツというのは、「仕事を離れる」という語源的意味がある。仕事というと要するにモノを運ぶことなのだけれど、一歩離れてスポーツをすることで、仕事のヒントが産まれるし、飽きやすい脳をリフレッシュさせるのによい。小さい頃は、コース台の前で大観衆の声援に応えるオリンピック選手に憧れた。今も憧れるけれども、スポーツ観戦は好まない。水泳のレースも最近は見ない。水泳は週に一度泳ぐにとどめる。泳ぎたいなぁという想いが湧いてきた日曜日の昼だけれども、今日はフィットネスは休みである。泳ぎてぇ。

*1:もちろん、イアン・ソープ選手の遺伝的素質は恵まれたものがある。しかし、彼は心拍数200以上で1時間ぶっつづけというハードトレーニングをこなすのである。また、それが可能な環境にいるということでもある。