シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパッチン研究者の記録

体育会系博士のトリセツ

体育会系*1叩き

体育会系というのはネットでは気嫌いされる傾向にある。これはリアルからの逃避場と位置づけられたネットの特性だろう。力というのがどういう場所で発揮されるかということを考えれば、そういう場所が増えることはいいことだ。リアルで成功できないならネットでという可能性が増えることは人がより自由になることを意味するからだ。そういう背景もあって「リアルの欺瞞を暴け!」という動機から体育会系の粗相はネットで叩かれやすい。

僕が体育会系で脳みそが筋肉な人間であるから、身びいきもあるが、ほんとうにすごい体育会系は腕力だけではやっていけない。腕力だけ、鍛錬のみでは通用しない。通用しなくなった三流の不満分子の粗相を「これだから体育会系は」などと叩き、かつ、「世間は博士よりも(だめな)体育会系を求めている」などと体育会系をひっくるめて悪とする議論がある。

→「体育会系ってそういう事だろ?博士の憂鬱
これはネットの欺瞞ではないのか。

体育会系も当然ピンキリ

そのうちリアルもネットもなくなる。そうなったときにお互いの欺瞞を暴こうという議論をしたところで幸せになれるだろうか。僕は足のひっぱりあいに巻き込まれるのはごめんだ。

僕は体育会系出身の博士課程の学生だが、世間には体育会系だろうと博士だろうと一流か三流かを見抜ける“ほんとうに力のある人”はいるだろうと信じている。自分で一流を目指し、そういう人に出会えることを望みながら、猛勉強するしかない。

一流に出会う秘訣。それは本気で一流を目指すことだ。僕は水泳で一流を目指し挫折した。それでも、過労でハンガーノックアウトしてぶっ倒れたことがあるくらいマジでやっていた。そのおかげで、僕は水泳ではイアン・ソープでさえ憧れるキーレン・パーキンスという一流選手と15分間一緒にレースをするという幸運に恵まれた。それはコーチがエントリータイムを60秒速くしてしまったという偶然のおかげもあったのだが、呼び込まれた幸運であったと思えてならない。

一流は一流に集まる。

逆に妥協型の人間は妥協型の人間のところに集まる。僕は活力のある人間以外とはつきあいたくない。その点非常にわがままだと思う。そういう意味でKYな人間だと思う。だが、足の引っ張り合いをしているような空気は吸いたくないのである。そんなの甘い?泥水飲んでなんぼだ?甘すぎる水も泥水も飲みたくない。なぜって身体に悪いからに決まっている。

泥水の代わりに重い水の中を泳ぐ

和歌山の上富田に知る人ぞ知るプールがある。硬水で、かえるや虫が泳いでいるようなプールだ。そこの水は重い。そこなら水を飲み込んででも泳ごう。そこでのトレーニングが競泳の日本記録、世界記録に貢献したという真実を知っているからだ。僕は頭ごなしに叱られても、打たれ強いためか、鈍感なのか慣れてしまう。一流の体育会系はこう言う。

叱って強うなるなら、なんぼでも叱る。でも強うならない。叱るほうもつまらないはずや。それよりは「頑張って幸せになろうぜ」とささくほうが子供さんも分かってくれる。ちなみに「頑張れ」という言葉は、みなさん使いますけど、これ、過去形はあかんねん。「頑張った」の下の句は「でも駄目やった」やもの。口先だけのがんばりでは勝てない。そこには勝たすだけの理論がなくてはならない。「頑張ること」そのものが目標になったら途中で進路を見失ってしまう。そんな指導者も多いですよ。

叱るより、ささやけ

叱るより、ささやけ


会長先生は指導者として一流のロールモデルだ。そりゃー、この本の中にも書かれているけれども、えげつないことしているのも含めて、知っている。だが、僕は今でも武官奥田会長を憧れに、体育会系博士としての一流を目指し、猛勉強する。自分の中で会長先生がささやいている。「キックとプルだけやったらたいしたことなくても、お前はスイムになると断然いい」こんなふうにほめられた、その感動が今でも別の科学研究に取り組む僕を突き動かすのである。たしかに、こういう一流な体育会系の博士になったならば、部下としてはわがままだし、扱いにくいかもしれない。そうであるなら、汗でびしょびしょになりながらプールサイド走り回って、耳元で「頑張って幸せになろうぜ」と言える人間に僕はなりたいのだった。

*1:いわゆる文化系・体育会系課外活動以外の意味を含めていない。「[http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20071228/1198811329:title=体育会系ってそういう事だろ? その2]」では、「いわゆる」体育会系のことを指すらしい。「いわゆる」の意味するところ、いや、意味させようとすることは、害悪を取り除き博士の雇用問題の解決にいったい何の役に立つというのか?