シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパッチン研究者の記録

ネットにおける自由の問題

何を言ってもよいか?
何かを言うことで起きたことに対しての責任はどう考えるか?
こういった問題はますますさかんに問われるようになってきた。
僕自身炎上するというようなことを経験したことはないし
今後もなさそうなくらい静かに何か書いているわけだけれども
何かを発言することに対する責任ということから逃れられない。
この発言をするとどうなるか
誰かが悲しい想いをするかもしれない。



技術というのは今までできなかったことを簡単にする。
これによって使う人はより自由になる。
ネット、携帯の普及による新たな言文一致とも言える現象は
ますます人間の“自由”に関する問題を突きつけてくる。
その言葉が発信されたら、それがどんな影響を与えるか?
そんなことを考える暇もなくネットワーク上を流れ、他人に解釈される。
その言葉がどういう文脈で他人によって読まれるのか
その人の精神状態、健康状態などありとあらゆる条件によって
影響の仕方が変わってくる。


検索サービスやソーシャルブックマークを始めとするウェブサービスによって
情報の価格づけが行われる。
これによって目指されているのは
情報の価値とその多様性の増大だ。
それによって、世界全体の生活をよりよくしようというわけだ。
だが、同時にこれらのサービスは
発信された言葉がどのように受け取られるかという予想を難しくした。
それは情報はひとりでいられず
編集を受け続けるという性質があるからである。


プログラマーがつくったソフトウェア
人間自身というウェットウェアによって
情報は編集され、意図せぬ表現の一部が拡大増幅されたり
矮小化されたりする。
予想などは不可能になる。


こうした状況の中でいかなる発言をするのがよいのか?
簡単に言ってしまえば“自重すべきかなぁ”とか
発信する前にプライベートモードで書いおくとか。*1
こうなってくると少しは考えてモノを言えという、何でもない結論に落ち着く。


少なくともこの意味での自分の行動結果を想像するような
フィードバック回路は持つべきだろう。


しかし一方で、リアルタイムでの表現の枝葉が面白いということがある。
自分では僕のパソコンの横に「ゴミ袋90リットル」という
付箋が張ってあるのが面白いとは思わないが
誰かは面白いと思うかもしれない。


一般論だけというのはつまらない。
たとえばアリストテレスは自然学の祖と言われるくらい
微細な事実に注目し体系化しようとした。
僕はこの事実を求める姿勢こそ大事なのだと思う。


「木を見て森を見ず」というが
そうではなくて
「木の方が面白い」
「木がなくて森などない」
「木は植物であり動かない
それはほんとうだろうか?
木はどのように成長し動き大きくなり死んでゆくのか?」
「木も動物ではないか?」
そうやって微に入れば入るほど豊かな知に出会えるのではないか?

人間は、ただの物質にすぎません。意識とか心とか言われるものなんて、脳味噌の中で何かがピロピロした結果にすぎません。

草日記

ピロピロ研究している僕には
ピロピロの中身がめちゃくちゃ面白い。
これを追求しても自由がなんたるか分かるかどうか分からない。
けれども、自由というのが何かを考えるためには
この中身にもっと踏み込むべきなのだと思っている。
ピロピロなどと粗雑に扱うべき問題ではないのだ。

*1:悪口をプライベートモードに書いている人、手を挙げて!