シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパッチン研究者の記録

美とは情報だろうか?

美とは情報だろうか?情報であるならばそれは編集性を持つ。それは編集されうるし、また他を編集する。情報というのは変化のことだ。均質化されたものには情報はない。また、情報はデジタル表現に限らない。デジタルは感覚されないほど小さな要素から構成されれば、アナログとは見分けはつかないが、ここでは情報は広い意味での変化を指す。


ところで、人間の営みは、世界をひたすら分解・再構成する行動であるともいえる。歴史的に情報の編集運動が開花した例がルネッサンスだ。ルネッサンスは古典復興と訳されるように、過去の情報を読み直し、ときに破壊し、構成しなおすという運動だった。これがさまざまな分野で起こった*1。またそこでは情報は共有されたり、破壊されたり、取り入れたりと、“編集されて”多くの偉大な作品として結実した。要するに、単なる全文コピペではないところに編集性があり、美しいと形容される何かがある。ルネサンスでファン・エイク兄弟によって油彩画の技法が生まれたのは、それが編集しやすい技法だったからだ。


最近でも編集性の高いコンテンツが好まれる。たとえば、動画サービスとして人気のあるニコニコ動画は多くのユーザーにコンテンツを編集する可能性を開いた。コメントをつけるという編集がコンテンツに反映されるから面白い*2。いと面白しなのだ。


こう考えてみると、美というのも編集されるものであるから情報であると言ってもよさそうだ。だが、水彩画や水墨画のような不可逆過程を用いたような絵には編集性はあるだろうか?いわゆる日本的な美には、この不可逆性を重んじる向きがある。それは日本刀の美でもあり、武士道での“潔さ”という美意識だ。死に対する美意識が不可逆性を象徴している。自然の美しさだ。


自然の美しさというわけだから、そこには自分とか人間は自然の一部であり、自分から世界を編集しようという主体性は抜け落ちている。むしろ“自然に編集される”という意味での美意識がある。主体性は消されるのではなく、自然に組み込まれて循環する。漆原友紀の描く蟲師のようなアニミズムの世界観だ。蟲師の表紙を油彩画では表現できないだろう。


こういう考えから、編集し、編集されるという文脈において、美とは“情報編集過程”から生ずると言えるのではないか。われわれは、世界を再編集して“美”をつくりだそうとする。一方で身を任せるのも“美”である。いずれの生き方、あり方にしても“美”は、不可逆な世界のあり方と関係がある。われわれは、増大し続けるエントロピーに対抗して何らかの構造を残そうとする。これは生き物というもののあり方と根底でつながっているのではないか。

*1:十字軍によって、ギリシア・ローマ文化が人間中心主義という極端な思想で再編集されたと言ってもいいだろう。

*2:実用的には、たとえば、⇒「[http://blog.livedoor.jp/yahata127/archives/51815618.html:title=プレゼンテーションする学生とニコニコ動画]」というような利用も可能なのは、プレゼンとしてアップされた動画を皆で編集できるからだ。