シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパチン研究者の記録

科学について、誰かが言ってそうなこと

生物学は実際のデータによって、生物が何でできているか、どうできているかを語らせる。乱暴に言ってしまうと、これに尽きる。「データに語らせる」ということにそれぞれの研究者の個性が反映するが、あくまで研究者は「自分がたまたま出会った現象であった」という立場を取り、「“同じ手続きを経れば”同じ現象が起きるのだ」と主張する。これは、決定論的世界観の中で「私」を抽象化している。つまり「私」は存在するが、それは“入れ替え可能な”「私」となっている。
一方で、科学的成果には“独自性”が求められる。しかし、入れ替え可能な“私”によって得られた結果に“独自性”を求めるという矛盾がある。この独自性は“技術”の側面を持っている。科学技術という言葉を嫌う人がいるが*1、科学でメシを食おうとしたら、この“独自性”、つまり“独自の能力”:“独自の技術”がなければ、いけない。
要するに、科学でメシを食おうと思ったら、独自の技術を磨かなければ、いけなくなる。“科学技術立国”をなし得るためには、独自技術を育てなければ、国としてメシを食うことはできなくなる。
ところで、独自技術は、これまでどこから生まれてきたか?
お金と人力の平均を上げると、独自技術は育つのか?
画一的なお金の分配で独自技術など生まれるのだろうか?
“競争原理”という考え方は、単なる“フィルター”でしかない。独自性というのは、フィルターから抜け落ちるのは当たり前の話であるように思う。自然淘汰とひとことで言ってしまうと、自然というフィルターがあたかも一種類であるように聞こえる。人間の思考には及び身つかない、無数のフィルターにかけられているのに。

必死に自分しかできないことを追い求めることだ。

*1:僕も純粋科学と技術を一緒にするなと思っていた。