シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパチン研究者の記録

機能っつーのは、目的論的認識

要するに手段・目的連関の中で、使われる。たとえば、携帯電話は、電話としての目的には、必要のない機能がいっぱいついている。だから、機能的というのは、ある全体に対しての表現であって、部分を取り上げて機能的というのは、間違っている。しかし、部分ががっちりと連携を取って、全体を構成しているなら、それは部分が全体の機能性を高めている。
で、因果論的認識というのは、結果よりも原因に重きがある、と思う。結果は予測不可能でもかまわない、桶屋が儲かってもいい。
「結果を出せ」という命令は、だから、「目的を達成しろ」であって、世間的には、結果は目的の意味で使われる。つまり、ある集団の目的が理解できていないと、機能的な(出来る)人間には決してなれない。「使えない」人間は、この最初のステップを踏み外す。
自然科学では、目的は、人間の主観でしかないことを痛いほど強調する。目的はある、しかし、それはたたき台であって、結果ではない。発見というやつは、たいてい目指していた目的とは違う、思いがけない結果のことである。そりゃそうだ。人間の主観で神の主観と戦おうとしても、ムダムダムダムダ。
目的は持つべきだ。しかし、目的に結果を合わせてはいけないのが、自然科学。あくまで、自然現象が優先される。恣意性というのは、もっとも嫌われる要素だ。
目的が予想される結果と先がすでに見えているようなものは、研究する価値がない。人類に何ら新しい認識を提供できない。そんな当たり前なことをときどき忘れる。将来が見えないから、怖気づいている。そういうときに、奮い立たせないと。
他人に設計される人生なんて、面白くも何ともない。