シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパチン研究者の記録

抽象化するということ

さきに告白すると、抽象化するというのは、どういうことか、はっきりとは分からない。というより、分かるというレベルをちょっと高く置いておきたい。抽象化されたモノ、ふつうは、概念とか観念とか言ったりするけれども、その実体が何なのか*1
我々は、指でも自分の名前は書けるし、足でも自分の名前は書ける。これの意味するところは何か、生理学的、科学的興味がわく。何らかの神経プロセスとして物理的にどう実現されているかと。おそらく、何らかの幾何学的なモノとして実現されているだろうが、まだまだ分からないところだ。
少なくとも、この例から、記号というのは、一つの行動として現れるというのは、たしかだ。感覚によって捨象されて、ひとつのモノとして表現される「自分の名前」がプロセスとして存在しているまでを「抽象」だというよりは、行動として表すということを抽象だと考えたい。先の例で言うと、「名前を書く」ということ。表すということ。
他人が抽象化した話は、自分の経験を抽象化して補わないと、分からない。相手が「あなたに、私の何が分かるのか?」というセリフは、よく聞くところだ。
感覚で、捨象し、行動で、抽象する*2
要するに、今は、そう考えている*3

*1:今、読書中のマッハによると、「ある概念を示すために言葉を用いる際、そこには周知の感性的活動ーーこれの結果として感性的要素(概念の徴表)が生ずるーーへの単なるインパルスが存する」という。たとえば「一般的な人間なるものを表象することはできない」ことを認め、表象できるのは、高々、いろいろな人々を適当に思い浮かべてその特性を合一して「でっちあげた」一個の特殊的人間像にとどまることを述べている。概念とは「批判検討したり、比較したり、構成したりする、往々にして複雑な、ある正確に規定された活動への衝動」のことであると。

*2:「行動は具体化ではないか」というコメントをいただいた。たしかに、外から、他人の行動を見ると、それは、「具体化」される。でも、それは、他人が感覚によって捉えた「行動」だから、捨象によって捉えた像、だと考えている。行動という<プロセスにおいて>抽象化が起きていると考えている。

*3:さらに、僕がどこに向かいたいのか、というと、要するに、動物がどのような方法で「適応的に」「目的に適った」行動を実現しているのか?ということ。