シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパチン研究者の記録

抽象は隠すことで、捨てることではない

抽象化されたモノは、あるモノから抜き出して他のモノを捨てるというものではないと思う。たしかに、素のモノを再現できるかというとできないわけだが、それは、抽象されたモノからは出てこないだけで、抽象されたモノを手がかりに探すことはできるからだ。
たくさんデータをとって、そこから図表ををつくるというところまでやると、たしかに図表から素データは出てこないが、素データに到達することはできるわけで。単に隠されているだけだ。「一を聞いて、十を知る」というのは、そういうことをやっている。ただ、それができない抽象化されたモノはたくさんある。そういう場合、隠されたところには、どうしても到達できないから、隠されたことに気がつかなくて、ただあるモノしか見えない。だから、「分からない」ということが生じる。
一度同じことを考えたことがある人しか、分からないだろう、などと言うのは、抽象化された結果しか見せてないからで、素に到達するための手順や、類推を省いてしまって表現した場合に生じる。
りんごでも何でもいいが、「ひとつ、ふたつ、みっつ、、」と数えたことがないのに、「数」なんて分からないのと、同じ。思うに、そうやって数える動作をしてない動物にとっては、「数」なんてないんだろう。
だから、抽象は切捨てるということではない。

つまり情報というものは常に何かを切り捨てて成立しているということであり、それを踏まえておけばその取り扱い方もなんとなく分かってくるような気がします。

=> "抽象化できない体験は語られない"

また、同じような反応が、と思ったら現実の世界では捨ててるというような話が出てるが、これも違う。

もちろん現実世界では、ほとんどの抽象は捨象とならざるを得ないが、それでも「粗にして漏らさない」のが抽象の目標だというのは変わらない。

=> "抽象≠捨象"

現実でも情報は捨てられない。抽象自体は、捨てることではない。現実では、抽象という行動出力側と、感覚という感覚入力側を分けて考える必要がある。捨てられるのは、感覚側での話だ。赤外線を見ることのできるヘビがいるが、我々は、赤外線は見えない。ここではたしかに赤外線は捨てられている。だが、抽象化能力のおかげで、こういう一見隠された事実を我々は使うことができる。

それでも、「抽象化しがたい体験」ほど面白い体験であり、それをさらに抽象することに我々は快感を覚えるのは確かだ。そして「いったん抽象化した経験を、再具象化する」ことができてはじめて「わかった」が得られる。この「わかった」が得られた瞬間が一番気持ちがいい。

ここもつっこみたい。抽象化した経験を再具象化はできない。数からどうやってもりんごは出てこない。

追記:
なんか、こういうコメントがついたみたいだが、投稿できなかったため、こっちに、追記する。
具象化なんて、ナンセンスな言葉だと、本当はいいたかった。

これは具象化という作業を誤ってとらえている。上記の例であれば「三すくみの関係として、『グー・チョキ・○○』に当てはまる○○は何か?」と考える作業が具象化。

http://www.asks.jp/users/mechag/25270.html

という例が出てきている。僕にとって具象というのは、五感に訴えるものだ。だから、具象化という言葉の使い方自体に違和感がある。具象化という作業をそうだとしても、それは抽象化作業と何が違うのか。単に別の抽象化作業をしているにすぎない。

追記2:
実体のある物ではなく、言語レベルでは詳細化とか、具象化という使い方は、あるみたい。
=> wikipediaでの「詳細化」の項目
いずれにしても、これらは、言語レベルでのある抽象的作業を、あえて、詳細化とか具象化とか言っているだけだ*1

*1:プログラマーにとっては、コードは具体的なモノだ。たしかに、言語はモノ的ではあるが、コードにあまり向き合ってない人間の場合、「現実的、日常的な意味での」具象に言葉は含まれない。これは、初学者にオブジェクト指向に対する分かりにくい説明を展開してしまう原因でもある。犬とか、馬とか、を言語の説明に用いてしまう。この説明は、コードとひたすら向き合う生活をして、現実化したレベルにならないと、犬とコードが結びつきにくいのだ。