シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパチン研究者の記録

活字ってなんだろうか。

活字離れという言葉を聞くことがあるが、インターネットで記事を読んでいると、「インターネットの記事は活字には入らないのか」と、ふと、疑問に思った。一般には、活字は印刷された文字を言う。ここでは、その区別を取っぱらったらどうだろう?すると、インターネットだけではない。携帯のメールもだ。みんな活字を書いては読んでいるではないか。最近だと携帯電話だけでなく、インターネットの利用者が増えて、しかも読むだけではなく、ブログやSNSなどの影響により、自分でたくさん文章を書くという機会が増えている。それなのに、活字離れというのは、ヘンな感じがする。確かに、本は読まなくなったのかもしれない。新聞も読まなくなったのかもしれない。でも、ここでイメージされている本とか新聞というのは、哲学、思想、文学書だったりしないか。新聞も日経新聞だったりしないか。ちゃんとした統計データを持った話ではないので、おかしいところもあるかもしれないが、少なくとも我々より上の世代の言う「活字」というのは、なんだか若者の「使っている」活字とは違うようである。
マクルーハンは「メディアはメッセージである」と言った。メディア自体が時代を表す鏡のようなものだ。ブログとか、SNSなんかが流行ってきて、そこでやりとりされる言葉は、昔とは比べものにならないくらい多い。活字離れどころか、思ったことをすぐに言葉にして公開することができてしまう。あとで自分が書いた文章を読み返すと、論理がねじれていたり、伝わりにくい言い回しになっていたり、辟易としてしまう。文章を書く訓練になるだろうかと思いつつ、まぁ、しかたない、とにかくキーボードを叩くかぁ、それが気持ちいい、と割り切っている。同じことは、レトリカさんも思っているようだ。
自分が何かを表すということに快感を覚えているわけだ。人間は表現したがる生き物なんだと、書いていて納得した。表現というのは、しかし、文字に限らない。絵も音楽もスポーツも何でもそうだ。プログラムを書くということもそうなのかもしれない。科学は何のためにあるかと言われれば、単に「問題に答えるため」だ。それも表現されて成果になる。それが快感なわけだ。問題が発生したら、それをみんなが納得できるかたちで表現し、答える。そこに快感を感じられれば、いい。でも、最近思うのは、これほど簡単に答えを公表できるネットという世界があるにもかかわらず、科学というのは成果が出ても識者と言われる要するに”力”を持った人によって選別され、何層ものフィルターを通して論文になるため、ものすごく時間がかかる。その時間がかかる過程を経るからこそ、厳密性や信頼性が高まるという面があるのは分かるが、それにしても効率が悪いのではないのかと思う。数学者が新しい定理を発表するときも論文より、実際、ネットでいち早く発表したりする。
じゃぁ、そうだ、私も研究者なのだから、面白い事実が出てきたら、インターネットで発表すればいいのか。うん、そうしよう。人に見せられるものを出すために、日々、努力です。はい。