シャコ・エビ日記

シャコパンチ、エビパチン研究者の記録

スイッチとしての自由

スイッチとは、切替器のことである。人間の自由はすなわち行動のスイッチである。はて、スイッチを切替えるのは、誰か。それが自分の場合、自由な行動である。スイッチが他者によって切替えられるならば、それは反応としての行動で、多くは反射行動だと言われる。自然選択というのも、自然によってスイッチが切替えられることを言っている。スイッチは、ONかOFFである。YesかNoである。陰と陽ではない。陰と陽は均衡する。シーソーだ。自由をとらえるのに、多くの場合スイッチとしての枠組を押しつける。
シーソーで考えてもいいはずだ。
スイッチというのは、ふたつの状態を言っていて、それだけである。そこに時間は入ってこない。切り替わるのには「間」があるはずだが、入り込む余地はない。自由はどこにあるか論じてもスイッチとして考えている限り、そもそも出てくる余地はない。ある時点で切り替わるというわけだ。
その考えはどう考えても不自然だ。
では、シーソーで考える。中で無数のシーソーが揺れている。そこには、時間の流れがある。揺れているものからある状態を抜き出すのは、我々である。そのとき我々は他者である。
切り替わるというのは、「結果的にそう見なしている」にすぎない。
昆虫、ザリガニのような甲殻類になると、数十万個、場合によっては数百万個のニューロンが絡み合った「脳」を持つ。そのひとつひとつが無数に絡み合い、相互作用をしている。その時点でもうすでに天文学的数字の相互作用がある。無数に連携したシーソーがどんな挙動をするかは、おそらく今すごいといわれる地球シュミレーターでも数値的にも解を出すのは不可能だ。それだけではない。ひとつひとつのニューロンがぎっちりとタンパク、細胞内小器官でつまっており、むろんDNAだってRNAだってつまっていて、時々刻々と物質の合成、分解を繰り返している。細胞の間とてスカスカではなく、ぎっちりと物質がやりとりされ、動きつづけている。
生きていることをなめるんじゃない。
人間のようなロボットができる?夢物語もいいとこだ。全細胞の系譜が分かっている線虫c.eleganceですら分からない人間が、単細胞のゾウリムシの挙動すら分からない人間がよくも大ぼら吹いたものだ。たかが知れたコンピュータでちょこちょこ計算しただけで、生き物が分かった風なことを言う人間は信用できない。信用してはならない。

"Concentrate on what cannot lie. The evidence..."
「嘘をつかないものに集中しろ。”証拠”だ」

  • Gil Grissom, team supervisor on TV's CSI, Las Vegas