危うく家に入れないところだった。結局合鍵をもらいに行き、家に帰った。次の日に実験台を見ると鍵が置いてあった。座るときに鍵がポケットに入っていると、角度によっては太股に食い込み、痛いため、一時的にに出したようだった。ものがなくなったときは、「ものがどこかへ行った」と考えるが、多くの場合、「自分がどこかへ行かす」ものだ。バタフライ効果よろしく、ちょっとした収まり具合の違いで偶然が重なり、ものがどこかへ行くということは、まずないのである。

考えるという作業をするときに、よくものを擬人化して考える。子供に対して母親がよくやることだが、子供が何かをぶったとき、「そんなことしたら、かわいそうでしょう?痛い、痛いって、言っているよ」とものを擬人化してものを大切にしなさいと教えることがある。これは、ものの立場になるというとんでもなく難しいことを子供に要求しているが、こういう経験が人間の「立場を変えて客観的に考える」という美徳を生むのかもしれない。何かというのは、人間、動物、動かぬ物であったり、何でもありだ。

ということで、鍵が見当たらなくなったとき、鍵が普段どこに置かれているか、鍵の視線になって考えてみて探して見たのだが、失敗した。ものをなくすときは、普段の習慣から外れたことをするときのようだ。しかし、まるっきり外れたことをしたのなら、それはすぐに記憶に残る。したがって、日常の中に埋もれているにもかかわらず、ちょっと違うことをしたときにものをなくすらしい。物の指定席を決めろとよく言われることだが、ちょっとだけずれたとき、ものは見つからなくなる。灯台下暗しか。何の変哲もない結論に落ち着いてしまった。