囚われの身

ずっと囚われている問題がある。「自由って何?」ということだ。中学生くらいからずっと。今日は突発的にそれについて考える動機付けが高まった。修士論文の発表会があったことがきっかけになったのだが。やってみたい実験を思い付いて、朝、教授にアイデアを話した。基本的にこういうときは、先生は止めることはない。やってみろということがほとんどだ。だけど、知恵を惜しまずに貸してくださることには頭が下がる。

ずっと自問していたら、また先輩にスキをつかれて、言われた。「お前は自由についてとらわれているから、自由じゃないな」とか、「自由を享受すればいいのに」とか。囚われて自由に考えることができなくなっているのか。

囚われる理由は、いくつかある。ひとつは、世の中には「説明されること」が多いこと。納得が行くように説明をされると、そういうものなのだと納得する。すると、今度同じことに出会ったときは、どうしたらいいか、のような予想が立つ。要するにこれはサイエンスのことなのだが、このようなあらゆる予想が立ってしまうと、自由がなくなって行くのではないかという不安がある。なんとかこの不安から逃れたいという気持ちが、自由について問わせる。なのに、私が今いるのは、サイエンスの現場だ。

もうひとつの理由は、動くものが好きだということだ。今は動物を見ている。そうすると自然に「動物に自由はあるか」という問いが発生する。でも、このままじゃ、どうも解けそうな問題ではなさそうだ。いわゆる不良設定問題。結果から原因を求めるには、前提条件を設定して、逆問題にしないといけない。「どうであれば、自由を行使できるか」と。

動くものは、それぞれ動き方がある。どう動くか。デタラメに動くもの、厳密に規定されたままに動くもの。この中間に自由があるーー気がしている。ところで、水泳のトレーニングにへとへとになって何も考えられないときに、ゆらゆら揺れている水面を見るのも好きだ。泳ぐ前は揺れていなかった。泳いだ記憶がゆらゆらと揺れる波になってる。それはいつのまにかまた静かになる。そしてまた泳ぐ。

なぜ、自由にこだわるか。また自分の頭の中がお花畑だなとも思う。一番の理由は、自由はもっと人間を豊かにすると思うからだ。もっと思いきって言えば、豊かになるというのは、自由が展開することだと思っている。もっと、自由を。神経科学が法廷で人を裁くことに影響を与えるという記事を読んだ。人を罰することができるのは、人が自由であることを前提としているからだ。どんなときにどんな外部および内部原因があってある行動が起きるのか。それに関する神経科学的知見が蓄積してくれば、より客観的に現状を分析し本当にある人間を罰するべきかの情報が得られることになる。それだけではない。この話題は人間に限った話だが、動物自身がどんな自由を行使しているか、それも考えられると思っている。地球上の生き物がどう生きているかという謎に答える一助になる。

そして、説明されることが多いのにさらに説明を求める。完全に囚われた。