勝虫日記

動物生理学者の覚書

確率の主観性と主観確率

確率は人間が定義すること。確率的なことが述べられていたら何を見ようとしてその確率が定義されているのかに注意しないといけない。確率を定義したその人の意図が背後に必ずある。これを確率の主観性と考えよう。すると、そもそも確率が言われているときすべてに主観性があるということで、それ自体もう何も議論することはない。あるのは、主観的に定めた確率的構造を複数比較してみて比較するということで、そうしてはじめて相互主観的(=客観的)なコミュニケーションが成立する。

 

注意すべきは、この確率の主観性とベイズ統計学の入門的場面でよく言われる主観確率は別物であるということである。筆者も最初は混同してしまっていた。「頻度主義は客観確率で、ベイズ主義は主観確率を扱う」という対立図式が跋扈しているが、この図式を捨てて明瞭になった*1ベイズ主義の主観確率ベイズ統計学を理解するのに必要ないと思う。ベイズ法に対する主観確率的解釈がもたらす混乱については次の論文で赤池先生が論じている。


Likelihood and the Bayes procedure  

https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-1-4612-1694-0_24

 

あるいは、日本語で書かれた赤池弘次「意図と構造」 で論争の不徹底さが指摘されている*2

 

この議論は不徹底なものであった。客観性を主張する人々が観測値の発生機構の表現として採用した確率的構造は、実は想定されたものであり、厳密な意味での検証による客観性を持つものではなかった。一方、確率の主観性を主張する人々は、他者に対する説得力を持たせるために、自然だと思われる条件や状況による想定による分布の制約を試みたのである。客観主義者は己の主観性を認識せず、主観主義者は客観性の獲得を願ったのである。

 

確率分布を、当面の問題処理に必要な情報の欠如に対抗して観測データに基づく推論を展開する枠組みとして、その時の知識や経験や既存のデータに依存して構成されるものと積極的に理解すれば、この混乱は消滅する。

 

これらを読むと、確率の主観性は念頭におく必要あるが、主観確率は必要がないということがわかる。

 

確率概念に対して本能的に距離を置いてしまうようなところがある。が、その分かり難さゆえの反応が出ながらも、そこからは目を離すことができない。何かがランダムであることは数学的にどのように記述されるかは、Kolmogorovが最期まで取り組んできた難問とのこと*3なので、浅学非才の身でそこまで深淵を覗き込むつもりはない。

 

一方で、人類はギャンブルをはじめ賽(ランダマイザー)を使用してきた。それでランダムについての直感は、実は皆が持っている。自分で運命を決められないとき、コインを投げることで道を選んできた。子供でも「何が出るかなー?」と言いながら賽をふって楽しんでいる。皆、そのような経験から確率概念を捉えていて、その経験的直感によることで実用上は問題はないだろう。

 

関連)

ランダム法則

http://katsumushi.hatenadiary.com/entry/2019/09/04/222148

 

*1:数学者の黒木氏がこの点について、現在使われている教科書の記述も含めて批判しておられるので参考にされたい。https://twitter.com/genkuroki/status/1164536189023424514?s=20

*2:https://www.jstage.jst.go.jp/article/bjsiam/9/4/9_KJ00005768650/_pdf

*3:「確率変数」http://watanabe-www.math.dis.titech.ac.jp/users/swatanab/rand-vari.html